東北大学 虹色みとこんブログ
東北大学生のセクシュアルマイノリティの当事者、また、自分のセクシュアリティについて考えている者が、交流できる場を創出すること目的としたサークル、虹色みとこんのブログです。

プロフィール

Author:虹色みとこん
虹色みとこんは東北大学生のセクマイ当事者を対象とした、セクシャルマイノリティ―サークルです。
連絡先:rb_mitocon@yahoo.co.jp
ツイッター:@rb_mitocon



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ごあいさつ

こんにちは、ショウです。
先日はお忙しい中、交流会にお越しくださりありがとうございました。
ささやかながらも楽しい会になったと思います。
今まで何度も参加してきた交流会もこれで最後かと思うと、なんだか寂しく感じます。

自身もつい昨日大学を卒業し、みとこんも世代交代の時期となりました。
今年度は自分が当サークルの代表を務めさせていただくことになったんですが、実は集団の代表的な位置についたのは小学校のグループ活動以来なんですよね。
調子こいて慣れないことをし、迷惑をかけてしまったこともありましたが、そうした時でも文句を言わず優しくフォローしてくださったメンバーの方や他団体の方には本当に感謝しております。
ありがとうございました。


さて虹色みとこんは東北大のセクマイが集まるサークルですが、こうした場で同じ立場の人々に出会ったり、自分の思いを素直に語ったりできることは、セクマイ当事者――特にクローゼットの方にとって、とても大きなことだと思います。
では自分自身もそうしたセクマイサークルならではの特徴ゆえに興味を持ち、参加を続けてきたのかと言えば、そうではありません。
率直なところ、自分がセクマイであることを何となく理解しつつも、特にそれについて悩んだこともありませんし、同じ立場の人々に話したり相談したりしたいと感じたこともありませんでした。
しかし、それでも当サークルは自分にとって重要なものでありました。
それはなぜか?
自分はこのサークルでの出会いや教わった知識を通じて、考える機会を得ることができたからです。
自身のセクシュアリティについて。それに基づいた生き方や他者との関わりについて。
こうしたことについて考えることで、自分のあるべき最も居心地のよい形を見つけることができると同時に、様々な人の在り方について寛大な視点を獲得することができました。
今の自分は、みとこんがなければ確実に存在しえなかったでしょう。

みとこんは特に何か積極的な活動をするわけではありませんし、セクマイに関するまじめな議論を頻繁に交わし合うこともあまりありません。
することといえば、仲間と集まってのんびり話をすることが大半です。
しかしだからといって、決して当サークルが無意味なわけではなく、活動を通じて自分にとって刺激となるものをつかみ取ることができます。
そうした機会を与えてくれるのが、みとこんの大切な役割の一つだと思います。
人により当サークルの意味するところも、そこからつかみ取れるものも様々でしょうが、みとこんでの活動を通じて得られるものが、皆様にとって良いものであることを願っております。


では最後に自身の歌の引用をもって締めさせていただきます。

 僕の行く先にユートピアはない
 踏みしめた土の上 虹の花を咲かす

世界は少しずつ良い方向へと変わりつつありますが、常に満足できる結果がもたらされるとは限りません。
セクマイとしての不自由を強いられたり、仕方なく周りに合わせたりすることもあるかもしれません。
ですが、たとえそうした中でも、セクマイであることをはじめとする自分らしさは見失わずにいたいものです。


それでは皆様、長い間ありがとうございました。
今後も虹色みとこんを、どうぞよろしくお願いします。


 平成27年 3月
 虹色みとこん代表・自称芸術家  さねかずらショウ


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続 空想劇場 ―「そいつ」の視点―

*前作、『空想劇場 ―休日の午後―』の続編となるフィクションです
――――――――――――――――

君には「性別があった。」

大多数と同じで、私とは違う。
そんなふうに違いがあることは、大して意味のあることじゃないだろう。
少なくとも私にとって、それは重要なことではない。
だけど君はその違いのために私に興味を持ったようだった。

初めて君と会い、性別のない私のことを語った時、君はこう言った。
「それは素敵な考え方なのかもしれない。
 だが、性別がないなんていうのは、結局のところ理想論じゃないか?
 たとえ君の中にそうした概念がなくても、現実にはそれを強いられるし、
 実際、君もそれに従うことがあるのだろう?」と。

その時、私はこう言ったはずだ。
「確かに性別はある。
 至るところに、あらゆるところに。
 だけど、きっと全てじゃない。
 その一つとして、私の世界があってもいいと思わないか?
 何も逆らうというのではないよ。それは私のやり方じゃないからね。」と。

すると君はこう言うんだ。
「でも、そんなの辛いじゃないか。
 自らの世界と、周りの世界が全く違っているなんて、あんまりにも孤独だ。
 君の世界を肯定する人はそんなに多くはないだろう。
 何故わざわざ自ら辛い思いをするんだ。」と。

君はそうやって私のことを心配してくれていたんだね。
確かに私はこれを「選んだ。」
選択肢は他にもあっただろうからね。
それでも、私はこれを選んでしまった。
より正確に言うなら、どうしてもそうしたかったんだ。

これは君が思っているほど辛いことじゃないよ。
むしろ私は、自分がこう在れて良かったとさえ思っている。
だって世界がこんなにも広く、美しく見えるのだから。

今はこんなふうに楽天的だが、いつかこのことで悩む時が来るのかもしれない。
それは、今を生きる私には到底わからないことだ。
だが、仮にその時が来るのだとしても、それはその時に悩めばいいことだ。
なんと愚かなことだ、と君は思うことだろう。
でも私は少しでも長く、この世界を楽しんでいたいんだ。
そう、それがたとえ「つくりもの」の世界だったとしても。

お互いのことを話しても、君は相変わらず君のままだったし、私も私のままだった。
きっと君は今でも、私の考えに納得してはいないんだろう。
別にそんなもの必要ないんだけどね。
だってそんなことをしなくても、私たちは互いを受け入れ、
良い関係を築いていたのだから。
分かり合えるか否かにかかわらず、私は君を気に入っていたんだ。

ねぇ、君はどうなんだい?
単なる興味とは別に、ほんの少しでも私と同じ気持ちがあったのだろうか?
たとえなくても、私が君を大切に思うことに変わりはない。
だけど、もし君にも同じ気持ちがあったのなら、
……やっぱりそれは嬉しいかな。



空想劇場 ―休日の午後―

 *この話はフィクションです
――――――――――――――――

そいつには「性別がなかった。」

ただしそれは、社会的に性別が与えられていなかったという意味ではなく、
生物学的にどちらとも判別できなかったということでもない。
さらに言えば、外見が中性的であったという訳でもない。

では一体どういうことなのかといえば、
少なくともそいつの中では、性別という概念が存在しなかったのだ。
そして、そこから導かれる当然の結果として、
同性愛、異性愛といった概念も存在しなかった。

それはそいつにとって、呼吸をするのと同等に当たり前のことだった。
一方で「性別を持つ」僕にとってのそれは、どうにも解せぬ事柄だった。
だけど、そういった訳のわからなさにもかかわらず、
僕はどことなく心が惹かれる思いを感じるのだった。

それはすごく自由だった。
だけどちょっぴり不自由だった。

それはなかなか辛いことだった。
だけどそれだけ楽しいことだった。

そのような奇妙な感覚がきっかけとなり、
僕はそいつに、そしてそいつの心のあり方に興味を持つようになった。
以来、僕らは親しく関わり合うようになっていた。
だが、どんなに長いこと一緒にいても、
そいつのことは相変わらずよくわからないままだった。

わからないことを、わからないままにするのは、ある意味では良いことかもしれない。
だからこそ楽しめるものもある。
だからこそ広がる世界もある。
しかし、相手のことをより深く知りたいという気持ちがあっても、
決して不自然なものではないだろう。

だから僕はある時、そいつに直接尋ねたのだった。
「人が名付けた恣意的なカテゴリにとらわれず、
 あるものをないと言い、ないものをあると言い、
 僕らが決して越えられないと信じて疑問すら抱かない壁を
 当たり前のようにすり抜ける、君は一体何者なんだ。」と。

するとそいつは笑って答えたのだった。
「自分は何者でもない。」
そしてこう付け加える。
「敢えて言うのであれば、ただの人間、
 自分という、ただの人間です。」と。

今でもそいつは、そんなことを言っているのだろうか。
これからもそいつは、そんなことを言い続けるのだろうか。
僕は「ただの人間」には、ならなかった。
今なお「ある種の人間」として生き、与えられた役割をこなしている。
それでも僕は、そんな自分の生き方に満足していた。
そいつは自分の生き方に満足しているのだろうか。

「ある種の人間」としてでも、「ただの人間」としてでも、
そいつが自ら選び取ったやり方で、どうか幸せになったほしい。
まるで永遠に続くような休日の午後。
なぜか僕はそんな風に、そいつのことを思い出してしまうのだった。



sexual orientation

「性的指向」というらしい。
選択的ニュアンスの「志向」や個人の好みを表す「嗜好」ではなく。
そういったものは生まれつきのものなのだから、と。

だが僕は思う。
生まれつきじゃなくてもいいじゃないか。
様々な経験から影響を受けることもあるだろう。
自ら選び取ることもあるだろう。
僕はそうやって歩んできて、ここへ至ったのだ。
少なくともそう信じている。

そもそも他者への想いに偽物も本物もない。
確かに周りに言われて「間違いだった」と気づくときもある。
だがそれも結局は自ら判断していることだ。
おのずと惹かれる部分が存在する一方、
自分の意思で選び取る部分もあると思う。
相手に惹かれる気持ちがあり、
それを認めてはじめて想いは成立するのだから。

対象の傾向に関し生まれつきを前提とすることは、
ある種の偏見を排斥するのには役立つだろう。
長年「病気」とされてきた歴史は確かにある。
しかし、その対処は新たな偏見を生むことにつながるかもしれない。
この想いの傾向が「性的指向」であるべきとされるなら、
きっと僕のこれは「偽物」なのだろう。

普及している言葉にはおそらく何らかの意味や思いがある。
僕はそれを尊重しない訳ではないし、批判している訳でもない。
ただ、それをそういうこととして確定し、思考を停止するべきではないと思うのだ。
それこそ、マジョリティを前提とする流れに甘んじるようなものだ。

僕は自らの人生の中で様々な影響を受け、考え、そしてここに至った。
そこには自身の選択も大きく関わっているだろう。
「本物」でなくても構わない。
僕は自分の sexual orientation を誇りに思う。


また君に

一ヶ月半ほど前だったか 七夕が終わって間もないころ
友人に連れられてきた文系食堂に 短冊で彩られた竹飾りはあった

備え付けの筆記用具を手に 少し考え込んだあと
書き記した願いごとは 「また君に会いたい」

すぐ近くにいながらも 相手の多忙さを言い訳に
ずっと会わずに過ごしてきて 気づけば三年の時が経つ

願い事なんてお遊びだと そう思っていたのだけど
忘れかけていたつい先日 思いがけず願いが叶うことになる

地元で行われた同窓会に 高校時代の仲間が集まる
その参加者名簿の中には 君の名前が書かれていた

短くない時の壁を越え 表面的印象の変わった君
少し戸惑いはあったけど 君である懐かしさがあった

夜空から降ってきたような再会は 全てを語るには短すぎて
大事なことを言えないまま 最終電車で手を振った

もしこの出会いが偶然なら 叶えてくれてありがとう
言えなかったことを伝えるために 今度は自分自身の意志で
また君に会いに行きます







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